20年間様々な『死』に接してきた私が考える『生きる』意味① 延命治療について

こんにちわ、アルゴです。

この記事もまた、YouTubeの下書きとなるんだろうなぁ(笑
でも、このスタイル初めてから割と楽なんですよね。

ブログ自体は過去の記事(玄米、マイホーム購入記)ばかりが読まれていて、最新の投稿があまり人気ありませんけどね。

さて、今回のテーマは『生きる』ことについてです。

何を今更、とみんなが思われるかもしれませんが、
長年介護の世界で何百という『死』に接してきた私があえて語ります。

現在40代の自分も50代へむかっているところ・・・
一度、死生観についてブログで話したいと思ってました。

介護の仕事を20年くらいして、様々な『死』に接してきた

20年も介護の仕事をしておおむね70〜90歳の方を相手にしていると、当然、その間、多くの方が亡くなっていきますよね。

年をとっても元気なお年寄りはたくさんいますが、そもそも介護保険サービスを受ける方というのは、何かしらの疾患がないと使えませんからね。
(元気な方は、介護保険認定にて、要支援〜自立と判断されてしまい、保険サービスを使えない)

100名入居者がいる特養で5年くらい働いたとすると、9割の90名くらいはその期間で入れ替わってしまいます。

私が介護の仕事を始めたころは、明治生まれの人がいっぱいいましたからね。

私は職場や部署を転々としていたのですが、それでもご利用者の『死』というものは避けられません。

 

『死』というのはいずれ誰にでもやってくるもので、私自身もスピリチュアルを学ぶうえでそれをよく理解しています。

ただ、それでもとくに仲良くさせていただいた方が亡くなると精神的なダメージがあるもんなんですね。

昨日まで元気に話していた人が、次の日、「自宅の椅子に座って亡くなっていたのが発見された」というような出来事もたくさんあります。

 

人生の最後をどう生きるか…これはかなり重要だと思う

上述したような、元気な人が突然ポックリといってしまう方は幸せだと私は思います。

だいたい、そういう人は、デイサービスなど通いのサービスを使われていたり、一人暮らしだったりする人ですね。ポックリといっても、一時的には「苦しい」とかはあったかもしれません。(誰も死の瞬間を見ていないのでなんとも言えませんが)

反対に、施設に入居しているような方は寝たきり、もしくはそれに準ずるレベルの方が多いですから、そういう方は、自分では何もできない状態になってから何年も生きます。

日本の介護職の労働環境・入居者にとっての居住環境が良いとは言えませんがそれでも、24時間手厚い介護・看護サービスが受けられるというのはある意味では安心です。

でもそれは、少しでも長く生きる可能性を上げるだけで、健康的な生活を遅れているとは思えません。

 

介護施設の例でいうと

「もう食べたくない・気持ち悪い」と言っている方に無理やり食事介助をしたり…

「コーヒーが飲みたい、ケーキが食べたい」と言っている方から、「身体に悪いですよ」と取り上げたり…

「今日は気分がのらないからお風呂は入りたくない」と言っている方を無理やりお風呂に入れたり…

「歩きたいよ」と言っている方を、「危ないから座っていてください」という身体拘束…

施設によって、あるいはサービスによって差はありますが、


(マンガ・社畜のトリセツより)

これは、介護・看護の視点からみると、入居者の命を守るという事を最重要にした結果であり、ある程度は仕方がないともいえます。

労働者としてもこのような組織で働くからには、組織の目的に沿って行動しなければなりませんからね。

しかし『命を守ること』=『人間としての尊重を保つこと』ではない…というか、現状そうなってはいません。

自分でやりたいことはほとんど何も出来ない、そんな状態で施設という牢獄に閉じ込められて人生の最後を過ごすことが、どれだけ意味のあることと言えるのでしょうか?

延命治療はほとんどの方が望んでいない、家族や労働者のエゴ

食べ物が口から食べられない状態になった場合、経管栄養と言われる手段で栄養を摂取する手段をとられることがあります。

経管栄養といっても種類があるのですが、多くの場合、『胃ろう』といってお腹に穴を開け、そこからゼリーなどの栄養食、水分などを胃に直接流し込む方法をとります。

この方法であれば、口から食べられない状態になっても長く生きられます。

しかしこのような状態でも、痰がらみは頻繁に起こりますし、胃に流し込んだ食事を口から嘔吐されることもあります。

自分では「もうやめてくれ」と意思表示することもできず、本当に苦しそうな表情です。

そもそも、食事を口から食べられない状態、水を飲みたがらない状態になるのは、身体がそれを必要としていないからなのです。

そんな状態の身体に不自然に栄養食や水を注入するので、身体に拒否反応が起き、痰絡みや浮腫(むくみ)が発生します。神の摂理に反した行為です。

私自身、介護施設で長く働きこうした寝たきりの方のケアをする傍ら、「自分は絶対このようになりたくない」といつも思っていました。

 

延命治療をされる方は多くの場合、その人自身がそれを望んでいるわけではありません。

20年間でたった一人だけ、胃ろうを増設した状態で歩行も元気にできるおじいさんをお世話したことがありますが、その方は毎日自宅でひ孫さんとのコミュニケーション、通所サービスで他のお客様との囲碁・将棋などを楽しんでいました。

胃ろうをつけてでも、生きる目的、人生を楽しめる要因があったのですね。

ですがそういうケースは極稀です。99%の方は、自分で意思表示ができない状態になってから、ご家族などの意思によって延命治療が開始されています。

 

しかしなぜ、そこまでしてでも寝たきりの人に長く生きてもらいたいのでしょうか?

単純に、愛する人に、「少しでも長生きしてほしい、死んでほしくない」という純粋な気持ちもあるかもしれません。

しかし在宅で生活している場合はその家族自身も長年介護をしなければいけないので、負担は増えます。

ただ、ご家庭によっては、寝たきりでも生きてもらうことで、その人の年金が入ることを目当てにしているケースもあるといいます。表立ってはそのようには言わないでしょうが、企業年金・厚生年金が多くある方は、延命治療の介護・医療費をさしひいいてもプラスになる場合がほとんどですからね。

実際、家族が死んでしまった事を隠して年金を不正に受給し続けていたというケースもよくある話です。

 

どんな目的があるにせよ、苦しむために他人の意思で長く生かされている延命治療というものを、私は肯定する事ができません。

つづく。